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公卿昇進と大宰府赴任

永万元年(1165年)に二条天皇が、永万2年(1166年)に摂政・基実が相次いで死去したことにより、二条親政派は瓦解して後白河院政派が息を吹き返した。頼盛は7月に大宰大弐となり、仁安と改元された8月27日には従三位に叙せられて、平氏で3人目の公卿となった。この同じ日には藤原成親が参議となり、藤原成範が従三位に叙せられるなど、院近臣の躍進が目立った。頼盛の叙位も、後白河近臣としての活動が評価されたものと推測される。

自らの政治力強化を目指す後白河は、清盛の協力により憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子を実現させた。10月10日、立太子の儀式が公卿や平氏一門の出席のもと盛大に執り行われ、清盛は春宮大夫に任じられる。頼盛は大宰大弐として現地に赴任していたため、この式典には欠席している。大宰府の長官は現地に赴任しないのが当時の慣例になっていて、日宋貿易を直接掌握する狙いがあったとしても不可解な行動といえる。憲仁立太子直後の28日に頼盛は皇太后宮権大夫に任じられているが、この時の皇太后は藤原呈子だった。呈子は美福門院の養女だったので、頼盛は親近感を抱いていたと思われる。一方で憲仁の母・平滋子との交流はほとんどなく、疎遠な関係にあった。

清盛にとって一門の足並みを乱す頼盛の行動は問題だったが、九州に平氏の勢力を広げること自体は悪い話ではなかったので、多少の黙認はしていたものと考えられる。仁安2年(1167年)正月に六条天皇が院御所に行幸すると、頼盛は九州にいたにも関わらず正三位に叙せられている。

参議就任と解官 [編集]
仁安2年(1167年)5月17日、清盛は太政大臣を辞任する。それに先立つ5月10日、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下される(『兵範記』同日条)。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任されることになり、清盛の平氏棟梁の地位は重盛に継承されることになった。8月には重盛の弟・宗盛が参議に昇進して、平氏4人目の公卿となった。

翌仁安3年(1168年)3月、呈子が院号宣下を受けて九条院となったため、頼盛は皇太后宮権大夫を辞任する。この院号宣下は后位に空席を設けるための追い出し工作であり、入れ替わりに滋子が皇太后となる。滋子の猶子となっていた宗盛は、皇太后宮権大夫となった。8月、頼盛より位階が下の兄・教盛が参議に任じられ、平氏5人目の公卿となる。頼盛は正三位だったが非参議であり、参議になることは悲願だった。10月18日、頼盛はついに待望の参議となるが、わずか一月後の11月28日、子の保盛とともに全ての官職を解官されてしまう。

解官の理由は、保盛については五節の節会で舞姫参入・御覧の儀式の勤めを、後白河の指示に従わず毎度怠ったこと、頼盛については、3月26日の滋子の代始めの入内に奉仕しなかったこと、休暇願いを出さずに無断で厳島神社に参詣したこと、鎮西を知行していたにも関わらず大嘗会関係の課役を勤めなかったことだった。高倉の即位や妻の滋子に関することであったため、後白河の怒りは激しいものがあった(『兵範記』仁安3年11月28日条)。
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処罰はそれだけにとどまらず、12月には頼盛の家人6名が解官される(『兵範記』12月13日条)。彼らは武官職にある軍事貴族であり、頼盛の軍事的基盤は粉砕されてしまった。この時期、重盛は病により健康がすぐれず、権大納言を辞任している。解官の背景には、独自の動きを見せていた頼盛を完全な統制下に置くことで、重盛の地位を守ろうとする清盛の意思が介在していた可能性もある。 頼盛の失脚は一年の長きに渡り、出仕が許されたのは嘉応元年(1169年)11月だった。

政界復帰と八条院への接近 [編集]
政界復帰後の頼盛は、清盛の力の大きさを痛感したらしく従順な行動をとるようになる。清盛も頼盛を完全に排除するのは得策でないと判断したようで、以後は自らの手足として積極的に活用する動きが見受けられる。嘉応元年(1169年)12月の嘉応の強訴では、頼盛は重盛・宗盛とともに官兵を率いて待機していた。後白河が成親擁護の方針を打ち出して抗争が激化すると、清盛は福原に頼盛・重盛を呼び出して状況を報告させている。このことは、頼盛・重盛が京都防衛の責任者であったことを示している。

清盛が頼盛を重用した理由としては、八条院の存在が挙げられる。八条院は美福門院の娘で、父母から荘園の大半を譲られて大きな財力・武力を有し、二条天皇の准母としてその後ろ盾となっていた。二条親政派が瓦解してもその勢力は衰えず、後白河や平氏にとっては敵に回すことが憚られる存在だった。

頼盛は建春門院とは疎遠だったが、八条院とは美福門院以来のつながりがあり、邸宅も接していた。八条院の乳母は源国房の娘で宰相局と呼ばれていたが、頼盛は宰相局の娘で八条院女房の大納言局を妻に迎え、光盛が生まれている。光盛は承安2年(1172年)の生まれなので、両者の婚姻は承安元年(1171年)以前と見られる。おそらく皇太后宮権大夫を辞任したことで拠り所を失ったため、八条院の庇護を求めたものと推測される。後に頼朝は荘園33ヶ所を頼盛に返還しているが、そのうちの14ヶ所が八条院領だったことを見ても関係の深さがうかがえる(『吾妻鏡』元暦元年4月6日条)。

しかし、この間の官位の昇進ははかばかしいものではなく、長らく正三位・参議のままだった。それでも頼盛は、承安4年(1174年)8月、近衛基通の従三位叙位の拝賀に清盛の指示で付き従い、安元2年(1176年)3月、後白河の50歳の賀のため法住寺殿で催された式典に一門の人々とともに出席するなど、表向きは協調の姿勢を見せていた。

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2009年03月16日 11:15に投稿されたエントリーのページです。

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