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2009年04月 アーカイブ

2009年04月14日

王憲 (新)

王 憲(おう けん、? - 23年)は、中国の新代の武将。

新討伐に蜂起した群雄の1人である鄧曄配下の武将。当初、王憲は弘農掾の地位に在ったが、地皇4年(23年)秋に鄧曄・于匡が析県(弘農郡)で蜂起するとその配下になったと見られる。鄧曄・于匡が、丞相司直李松らが率いる更始帝軍と合流し京師倉を攻撃すると、その間に王憲は鄧曄から校尉に任命され、別働隊として周辺地域を掃討することになった。

王憲は数百人の部隊を率いて北の渭河を渡河して、左馮翊へ進入し、各城を攻略、占領する。さらに北進して頻陽県(左馮翊)に至るまでに、檪陽(左馮翊萬年県)の豪族申碭と下邽(左馮翊)の豪族王大などが、次々と王憲に投降してきた。そして、天水郡の隗囂率いる軍が長安に向かっているという風聞を受けると[1]、王憲は長安攻略の大功を立てようと進軍を開始する。

同年10月、王憲などの更始帝軍部隊により長安は陥落した。王莽は漸台で商人の杜呉に殺され、校尉公賓就は王莽の首級を王憲に献上する。すると王憲は漢大将軍を称し、城内の10万の軍勢を自軍に加え、王莽の後宮の女性たちや衣服、車馬、器物を独り占めした。さらに、御璽と天子の儀杖まで自分のものとしている。それから間もなく、李松、鄧曄らが率いる更始帝軍本隊が長安に入城し、更始帝配下の西屏大将軍申屠建・将軍趙萌もこれに合流する。申屠建と趙萌は、王憲が戦利品を独り占めし、御璽や儀杖を献上しない様を見ると、直ちにこれを捕え、処刑してしまう。

ところが王憲の処刑により、三輔の官民は残らず粛清されるという風聞が飛んだ。このため、三輔各地で挙兵していた群雄や民衆は、恐慌から更始帝軍への反乱を頻発し、申屠建らはこれらを鎮圧できず、翌更始2年(24年)2月に更始帝が長安入りして大赦を布告するまで混乱は続いた。

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2009年04月30日

668年の高句麗滅亡後

668年の高句麗滅亡後、高句麗の遺民たちは唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)に強制移住させられていた。

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690年に唐で武則天が即位すると、内政が混乱を始める。この動揺を突いて、同じく強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、高句麗遺民らは、粟末靺鞨人指導者乞乞仲象の指揮の下に営州を脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地に帰還、東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝する事で独立を認めさせることに成功し、「渤海郡王」に冊封された。

2代大武芸は仁安と言う独自の元号を用いて独立色を明確にし、唐と対立して一時山東半島の登州(山東省蓬莱)を占領したこともあった。また唐・新羅・黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送っている。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、毛皮などが交易された。この交流は渤海滅亡まで続き、計34回使者が行き来している(渤海使・遣渤海使)。 大武芸が没するとその子大欽茂が即位し大興と改元した。父武王の唐との対立した政策を改め文治政治へと転換する。唐へ頻繁に使節を派遣し恭順の態度を示すと共に、唐文化の流入を積極的に推進し、漢籍の流入を図ると同時に留学生を以前にも増して送り出すようになった。これらの政策を評価した唐は大欽茂に初めて「渤海国王」と従来より高い地位を冊封している。この他旧国(東牟山)から上京竜泉府(現在の黒竜江省牡丹江市)への遷都を実施し、五京を整備する等の地方行政制度を整備するなど唐制を積極的に採り入れるなどし、国力の発展が見られた。

このようにして渤海発展の基礎が築かれたが、大欽茂治世末期から国勢の不振が見られるようになった。大欽茂が没すると問題は深刻化し、その後王位継承に混乱が生じ、族弟の大元義が即位後、国人により殺害される事件が生じた。その後は大欽茂の嫡系の大華璵が即位するが短命に終わり、続いて大嵩璘が即位し、混乱した渤海国内を安定に向かわせる政策を採用した。大嵩璘は唐への恭順と日本との通好という外交問題に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩璘没後は大元瑜、大言義、大明忠と短命な王が続いた。この6代の王の治世は合計して20数年でしかなく、文治政治の平和は継続したが、国勢の根本的な改善を見ることができなかった。

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